お付き合い
お風呂でシャワーを浴びていたところ、ふと「人との付き合い方」というキーワードが脳裏によぎったので、書き連ねてみようかと思う。
私は1990年生まれで、今日までのインターネットの著しい発展に合わせるような形で成人した世代だ(と思う)。「小学生の頃にはインターネットに触れていた」なんて同期もいる。
思い返せばコミュニケーションの形は随分と様変わりしたように思う。
中学校に入学したら、携帯電話を持ってるクラスメートがチラホラいて、高校に入学したら自分も含めて殆どみんながソイツを持っていた。大学に入ったらSNSなんてものが流行していて、流行りのfacebookやらtwitterなんかは今やビッグビジネスだ。
スマートフォンなんてものが出来た。これは余談だが、かくいう私もつい二日前から遂に使い始めている。(ハイテク過ぎて混乱)
さて、そんなことは周知の事実だけれども、個人的に興味深いのは、多くの人が目の前にいない人間に対して腹をたてたり、最近では好いた惚れたなんて話もそう珍しくもなくなってきたということだ。
事の是非なんてのは瑣末な問題だと思う。
一緒にいない時の相手の事、今まで知り得なかった情報を得られるようになったことで、ある種呪縛のように感情や行動が他人に左右されている(個人的には依存と言い切ってしまいたい)人が多々見受けられることが空恐ろしいのである。
ひと昔前ならば干渉し得なかった部分に過干渉して、幸せになるケースは良いのだけれど、誰も幸せにならないような行動や発言に及ぶ人が決して小さくない割合でいる。
手っ取り早い例として、各種SNSにおけるフォローやら友達申請なんてものを挙げてみる。大雑把に言ってこれらは「私はアナタに興味があります」というシグナルを送り、相手も自分に興味を持ってくれたら「互いに一種の関係を築こう」というものだと言える。
この関係は、webサービスという形式上、ボタン一つで構築も解消も1秒で可能だ。
対して我々の心は、無論ボタン一つでどうこうなるものではない。
ところが、そうしたwebサービス上での関係の解消を、主観ゆえに語弊があるかもしれないが、必要以上に自分の心や実生活に持ち込んでしまう人が多い。
ここで、一切を割り切るのならそれはそれで良しだが、そうした人は概してずるずると引きずっているものだ。「相互なんちゃら推奨委員会」なんてものがあったくらいだからこれは間違いないと確信する。
割り切れない相手だったなら、謙虚に「どういった点がいけなかったでしょうか」と聞いて、変える必要があると感じたら変える努力をすればいいし、ちゃんとした態度でお伺いをたてたのに聞く耳持たないような相手だったなら、それ以上考えるのは時間の無駄だと思えば良いのだ。
重要なのは、より多くの人が幸せになるためには最低限自分を自分で幸せにすることが必要であり、またそれは自分以外の誰かにどうこうされるようなものではない、ということである。
他人は自分ではないので、自分がコントロールできる存在ではない。これは精神論ではなく非常にシンプルな事実である。
「そんな風には考えられない」と言われるのであれば、「ああ、じゃあこの人はずっと苦労することを’自分で’選ぶんだな」と思われるだけなのだ。
私は、願わくば他者を幸せにしたいので、自分を幸せにしてやることに全リソースを注ぐ。
そんなわけで、心当たりのある方がいらっしゃいましたら、お茶でも飲みながらちょっと考えてみて欲しいと思う。
な〜んて、ちょっとチャレンジしてみたけれど、ちゃんと伝わるような文章は書けなかったな〜ん。