雑記

身の回りの色々なものが、小さく、少しずつ人質に捕られているような感覚が永遠のように続いている。

これは自分の振る舞いや考え方の問題なので謂わば自業自得だ。

お門違いな事で人を責めたりしない程度には自分も成熟した。



誰が私の考え方、感じ方を否定できようか。

同様に

私もまた他者の考え方、感じ方を否定はしない。



これは自分の信念、或いは原則なのかもしれない。

故にこの感覚はこれまでと同様に

時の経過と共に形を変えながらも続いていくのだろう。



まだ見ぬ誰かやよく知る誰かに迷惑をかけることもあるだろうが

先述のようにこれが私にとって信念であり原則であるならば

誰かの為に曲げるようなことは決してないだろう。

仮に命を刈りとる様な事になっても曲げはしないのだろう。

自分は恐らくそういう風に出来ている。



以上の事を踏まえた上でも尚、自分を捨てない(或いは捨てられない)人々がいるとすれば、それはとても幸せなことだと思う。

その人たちが傷つき続けるのはとても辛い。


しかし信念はそれらを踏まえても尚優先する。


最後通告、或いは懺悔か、それとも慟哭か。

或いは他の何かか、そんなようなもの。

蕎麦湯

今月に入ってそうでもなくなったが、先月は蕎麦屋に頻繁に出入りしていた。

1000円蕎麦ではなく300円蕎麦チェーンの方。

ゆ〇太郎とか名代富〇そばとか。

正直見た目の割には多食な自分にとっては量の面で物足りないのだけど

まだまだ暑かった中で手軽さと清涼感からハマっていた。

ワサビのちょっとした刺激も最高である。


さて、チェーンといっても侮るなかれ。

シンプルな冷たい蕎麦を頼むと置いてある蕎麦湯を楽しめる。

香り高い 食感に工夫が なんてことはないのだけれど

キツめの冷房の下では最後の蕎麦湯が重要だったのだ。

勿論、今のように少し冷え込む季節ならより一層蕎麦湯がありがたい。

冷たい冬になれば暖房の効いた店内から外へ出る勢いを付けるのに良い。

オススメです。


ところがそんな蕎麦湯にも一つ問題がある。

元々のつゆが濃くて多いのだ。

普通に蕎麦を食っていては器に対してつゆが中々減らず

最初の蕎麦湯は大変濃いモノを口に入れなければならない。

薄味好きの自分には結構辛いものがある。

オペレーションの都合上つゆの量はある程度決まっているのだろうけど

もう少しだけつゆの器に高さが欲しいと思う。

さすればサラリーマンのワイシャツにつゆが飛びにくくなるだろうし

一石二鳥だと思うのだが・・・。


最後にコラム的な

「ざる蕎麦」と「もり蕎麦」

その違いがよくわからない方はいるのではなかろうか。

ハッキリと値段が異なる(後者の方が安い)が

ざる蕎麦よりシンプルなメニューが在りうるだろうか?と。

自分はそう思っていたのだけれど、実は価格ほど重要な差はない模様。

自分で見る限り、ざる(水はけが良い)か否かっぽい。

もしくは海苔の有無という説も。

もり蕎麦が正体不明だとついざる蕎麦を頼みがちだが

金欠な同志達よ、こだわりがなければもり蕎麦を勧めたい。


(そう言えば、もり蕎麦って関東以外にもあるのかしら)

キュレーション

キュレーションってものについて読み物してて思ったこと。

新聞やテレビに対するダメ出しが多い。

みんなそれらの何を「ダメだ」とするのか。



〜自分の場合〜

新聞なら、事実の解釈について「おや?」と思うことがある。

但し、一定期間数種類を読み比べとかしたことないので何とも。



テレビなら、ニュースに関してのみだけど時間がかかり過ぎる。

30分かけて編集された情報を得るとして、ネットで雑多に色々読みまくってもテレビの30分を網羅した上で倍は情報収集出来る。

人が話す事によるわかり易さとか覚えやすさといった付加価値が進行の遅さに釣り合ってない。其のへんを女子アナとかに見出す人もいそうだけど。



でも、双方ともに一日に起こる膨大な情報から絞り込む量的な作業はやっぱ代替不可なのであんまり侮れたモノではないなーと。



以上、自分が今までより真剣にニュースを読む動機付けに。

雑記

未だに、心のどこかでチャンスを「与えてくれ、投げてくれ」
と思ってしまう部分があって我ながらウンザリする。


心優しい人々に色々なアドバイスや、言葉を選ばず言えば
ダメ出しを食らう事は自分に限らずたくさんあると思うんだけど


実は目から鱗的な事が殆どなくて。


9割5分以上は自覚があって。


そういう嫌な感じ、生意気な部分を外に出さないようにすることが
ここ数年で少しずつ出来るようになった。


そんで、直そう直そうと口に出して
自ら啓蒙していかなきゃと振舞ってはみてるんだけど


未だに本音では正直堕ちていけばいいや


と、思っている。
そういうところもまた我ながらウンザリ。


目の前に広がるリスクに対して
その存在を確かに認識しているのに
なんの備えもないのに恐怖を感じず
準備をする気にもなれないのは


想像力が圧倒的に弱いのか


本質的に所謂ダメ人間なのか


まあそれはどっちでも良いけれど


原因は?

記事投下直後に振り返って

http://d.hatena.ne.jp/genju0116/20120531/1338465316

こんなフザケた悩みを抱えた

或いは似たような感じで悩んでる人って

いるのかな。


ざっと自分で見てみて

これ人との接点が足りないからそういう風に

悩むんじゃないかな〜と思った。


じゃあ人との接点持ちたいか

どうすれば持てるか

よくわかんないんだよな。


一人で考える限界なんだろうか。


直近で友人の誕生日失念してみたり

ここ最近接点を持つ事からどんどん逆行してる気がする。


自分では自分のことそんなにダメな奴だと思わないんだけど

絶対一般的にはダメなんだと思う。


自分では思ってないってのがミソなんだよな。

薄々気づいていても危機感が沸かないのは

恵まれているからなんだろう。

生活

人の生活って一つの要素から出来てるわけじゃない。

生活って一人で成り立つものでもない。

愚直に一つの事を極める人の市場価値はそらあ高い。

市場価値が高いって事は「欲しい」と思われるってこと。

そりゃあ、何か一点に於いて他の人より完全に優れてるんだから

欲しがられるに決まってる。


じゃあそういう風に欲っされたいか?

って考えると、正直noとしか言いようがない。

だって、何で欲しいのかって

その能力が欲しいからってわけでしょ。

我ながら本当に残念だけど

ぼくはそういうので自尊心とか満たされないし

何の意欲にもつながらない。


自分のやったことは

目の前で喜んで欲しいし

面と向かって感謝されたい。


素晴らしい仕組みやシステム作って

結果大勢の人間の幸せが底上げされること

なんて興味がない。


無論そういう人って凄いって思う。

リスペクトもするし何より感謝もする。

でも残念ながら

ぼくは興味がないしそのための能力を

養う気力もない。



じゃあどうやって生きていくつもりなの

って話だけど、明確に答えられないあたり

平和ボケここに極まれりって感じだ。



自分で自分にインセンティブ付与できない。